ガボール・マテ 『身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価』
![]() |
身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価 ガボール マテ Gabor Mat´e 日本教文社 2005-09 by G-Tools |
『身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価』
著者:ガボール・マテ / Gabor Mat´e
翻訳:伊藤はるみ
出版社:日本教文社
出版年月:2005年9月
[感想]
後日
[以下、個人的な備忘録]
■P.284
・家族システムズ論の基本概念:“差異化”
「感情面で他者とふれあいを持ちつつも、自らの感情の働きを自律的なものに保っていられる能力」
・十分な差異化を達成できていない人
「自己と他者との間に感情的境界を持たず、思考のプロセスが感情的なプロセスに圧倒されることを防ぐための『境界線』を引くことができない。そのような人は他者の不安を自動的に自分のものとして取り込み、自分の中にもかなりの不安を生み出す」
・十分に差異化のできている人
自分の感情を率直に受け入れて反応する。その感情は他の人の期待に合わせたものでもなければ、他の人の期待に抵抗するためのものでもない。自分の感情を抑圧することもなければ、感情のまま衝動的に行動することもない。
・“機能的差異化”と“基本的差異化”
(ジョージタウン大学家族センター所長 マイケル・カー博士)
基本的差異化の達成度が低い人ほど、精神的なストレスやからだの病気に陥りやすくなる。
・“機能的差異化”
他者との関係を基礎にして機能する能力。たとえば、私は相手が―雇い人でも妻でも子供でもいいが―私の抱えている不安を受けとめ、私の不機嫌や、いい加減な態度や、相手に対する無関心や、あるいは虐待的な行動にすら耐えてくれるときにだけ、仕事の成果をあげることができるとする。彼らが私の求める役割を拒否すれば、私は何もできなくなってしまう。
・“基本的差異化”
他の人が私のかわりに精神的な苦労をしなくても私は私でちゃんとやっていくことができる。つまり人の感情にも自分の感情にも率直でありながら、なおかつ人とのつながりを維持できること。
■P.349
「healing(治癒)」という言葉が、「whole(全体)」を意味する言葉を語源としており、今でも「wholesome」という言葉は「健全な」という意味で使われていることを、私たちはほとんど思い出すことがない。治癒することは「全体」になることなのだ。(略)
完全なものが不完全になるにはふたつの道がある。そこから何かを取り去るか、あるいは全体の調和が乱れて、それぞれの構成要素がそれまでのように協働できなくなるかだ。前に言ったように、ストレスと脅威―何らかの非常に重要な欲求が拒絶されるという脅威も含まれる―に対する反応として体内のバランスが乱れることである。
■P.350
健康になるための潜在能力も病気になる可能性も、私たちすべての中にある。病気とは調和の乱れた状態である。もっと正確に言えば、病気とは体内の不調和の現れだ。病気を外からの異物ととらえれば、私たちは自分自身に戦争をしかけることになりかねない。
■P.351
救いがたい楽観主義への薬として、私はネガティブ思考の効用を勧めてきた。「もちろん、冗談ですよ」と急いで付け加えはするが。「私が本当に役立つと信じているのは、“思考”の力です」。“思考”という言葉に「ポジティブ」という形容詞をつけたとたん、現実のうちの「ネガティブ」だと思われる部分は排除されてしまう。これはポジティブ思考の力を信じる人のほとんどに見られる現象である。本当のポジティブ思考は、あらゆる現実を認めるところから始まる。そこにいたるには、たとえどんな真実が出てこようとそれを直視できるという、自分に対する信頼感が必要なのである。
治癒のためには、ネガティブに考える勇気を奮い起こさなければならない。私の言う「ネガティブ思考」は、現実主義を装った暗くて悲観的な考え方ではない。それはむしろ、何がうまくいっていないのか考えてみようという姿勢なのである。バランスを乱しているのは何だろう? 私は何をないがしろにしてきたのだろう? 私のからだは何に対してノーと言っているのだろう? こうした問いかけをしないかぎり、私たちのバランスを乱しているストレスはいつまでも隠れたままなのである。
■P.354
より明るい考え方をし、悩みが少ないように見える人のほうが病気が重くなるという研究結果がいくつも出ていることは、世間一般の見方に反しているように思われる。普通は、ポジティブな気持ちをもつことは健康にいいと考えるものだ。確かに真の喜びや満足感はからだにいい影響をおよぼすが、精神的な不安を封じ込めるために生まれた「ポジティブ」な精神状態は、病気に対する抵抗力を弱めるのである。
■P.369
「私たちが感じるストレスやイライラは、本来の自分ではない人間の役割を否応なく果たさなければならないという思い込みから生ずる」とハンス・セリエは書いている。ネガティブ思考の力を発揮するには、私は自分が思うほど強くないと認める強さが必要である。
■P.371
(略)多くの人にとって、罪悪感とは自分のために何かを選択したことを示す「徴」である。深刻な病気を抱えたほとんどの人に向かって、私は忠告したい。あなたが罪悪感を感じないときはきっと何かのバランスが乱れているんですよ。あなたはまだ、自分の欲求や気持ちや興味を後回しにしているんですよ、と。ネガティブ思考の力がつけば、罪悪感を避けるどころか、むしろ歓迎するようになるだろう。きっとエドはこう言えるようになるだろう。「これは罪悪感じゃないのかな? やった! 素晴らしい! つまり僕は正しいことをしたわけだ。自分が変わるために、自分のために行動したいんだ」
■P.372
以前、あるセラピストが私に言っていた。「罪悪感を持つことと恨みを持つことのどちらかを選ばなくてはならないときは、いつも罪悪感を選びなさい。」それ以来、私はその賢明な教えをせっせと人に伝えている。断ることが罪悪感を、承諾することが結果として恨みをもたらすのなら、罪悪感を選ぶべきである。恨みは精神的な自殺なのだ。
分子生物学者キャンディス・パートは書いている。「楽しいことを考えるだけで健康になるわけではない。長い間抑えつけていた怒りを爆発させることが免疫系に活を入れ、それが治癒の最大の引き金になることもある。」
« ジュリアン・デュヴィヴィエ 『巴里の空の下セーヌは流れる』 | トップページ | エルンスト・ルビッチ 『天使』 »
「身体論」カテゴリの記事
- ガボール・マテ 『身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価』(2011.02.06)
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/222150/50767073
この記事へのトラックバック一覧です: ガボール・マテ 『身体が「ノー」と言うとき―抑圧された感情の代価』:
« ジュリアン・デュヴィヴィエ 『巴里の空の下セーヌは流れる』 | トップページ | エルンスト・ルビッチ 『天使』 »









コメント